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リフレーミングから多次元リフレーミングへ

リフレーミングをご存じですか? 最近はあちらこちらで取り上げられるので、ご存じの方は多いと思います。人の意味体系の枠組み(フレーム)を変えることをリフレーミングといいます。ご存じの方はこれで理解できると思いますが、はじめてこの概念に触れた方にはもっとよく説明いたしましょう。

たとえば、「みにくいアヒルの子」という物語があります。そのお話では、なぜかアヒルの家族に他の子どもとは外見の違うみにくいアヒルの子がいました。大人になってみにくいアヒルの子は、実は美しい白鳥だったことがわかり巣立ちます。この物語を読んだ子供たちは「他の子どもと違う」=「悪いこと」という意味体系が、実は白鳥だったということがわかることで「他の子どもと違う」=「いいこと」というふうに変化します。これがリフレーミングです。

ほかにもこんな話があります。

あるときひとりの弟子が師に尋ねました。

「あなたは数々の話を聞かせて下さいます。でも、決してその意味を明かそうとはなさいません」

師は言った。

「もしも誰かが前もって噛み砕いておいた果物をあなたにくれたとしたら、あなたはそれが好きになれますか?」

この話では「意味を明かさない」=「非難の対象」という意味体系が、「意味を明かさない」=「味わうことができる」という意味体系に変換させています。このようなことがリフレーミングです。リフレーミングはただ一つの答えがあるわけではありません。

このようにして誰でも、ある出来事に対して、悪い意味体系を良い意味体系へと変換することができます。このことによってプレッシャーを軽減させたり、前向きな考え方になったりすることができます。このような効果がリフレーミングにはあります。ですので、リフレーミングを与える言葉は力づける言葉になるものです。

しかし一方でリフレーミングは、良い意味を悪い意味にも転換できます。

前の例を使ってよい意味を悪くしてみましょう。

あるとき弟子が師に言った。

「あなたはたくさんの話を聞かせてくれ、その深い意味を教えてくれます。ありがとうございます」

師はそれを聞いてこう答えた。

「あなたは私が噛み砕いた果物を喜んで食べるのだね」

こんなこと言われたら驚きますね。(笑) これは実験として良い意味を悪い意味に変換させてみました。普通こんなことはしません。しかし、多次元リフレーミングでは、このようなことに価値が生まれます。

たとえばある人の誕生日パーティーが開かれたとしましょう。祝ってもらう人は親しい友人に囲まれてきっとうれしいでしょう。企画した人はきっとパーティーに人が集まりホッとしているでしょう。招かれた人は喜んで参加している人、うれしくはないけど義理で参加している人、そのようなパーティーを開いてもらうためにはどうしたらいいのかと考えている人など、いろんな人がいるはずです。同じ誕生日パーティーなのに立場が違えば見え方が違うのです。どの立場が正しく、どの立場が間違っているというわけではありません。しかし、たいていの人は「誕生日パーティーはどうだった?」と聞かれると、まずは自分の解釈を思い出し、そのまま伝えていいかどうかを考え、伝える相手がどう思うかを考えたのちに、その相手にとって良さそうな答えをするものです。

「うん、なかなかいいパーティーだったよ」

本当は義理で参加してちっともうれしくなくても。つまり、自分の本心と、普段使っている言葉のあいだに乖離があるのです。これがいいとか悪いとかいうつもりはありません。こういうことはよくあることです。本当にそうかどうかは自分の心に聞いてみて下さい。もちろんそんなことはない人もいると思います。このような些細な乖離があることをたいていの人は意識しません。その乖離がとても大きい場合、そこに苦痛が生まれる場合、はじめて気がつくものです。しかし、その乖離にも関わらず、目の前の人に言うべき言葉を選ぶことに慣れ切ってしまった人は、そうしている自分にすら気がつかないことがあります。そのような状態を長く続けるとよくないですね。せめてそのことに気がつきましょう。気がついていれば、大きな問題にはならないかもしれません。

多次元リフレーミングでは、いろんな立場の人がいろんな感じ方をしているだろうその感じ方を、できる限り知ることで、自分が離れようとはしない解釈から、自由になる可能性を手にします。

いろんな人の解釈を知ることで、どうして自分が離れようとしない解釈から自由になるのか、なんとなくわかっていただければ結構です。もしまったくわからないのであれば、「そういうことがあるものかなぁ」と思いながら、日々の生活を送ってみて下さい。わかるきっかけがひとつ見つかると、するするっと理解できることもあります。

多次元リフレーミングについて、もう一段深いことを考えてみましょう。それは、立場の違いから生まれるものの見方があるのは理解しました。その立場の違いが自分の中にもあることです。たとえば、自分が父親の観点から見た場合、先生の立場から見た場合、ご近所付き合いの中で隣の旦那さんという立場から見た場合など、自分が想定される立場によってものの見方が変わる場合があることです。これについてはただ「そういうものだな」と思っていただければ結構です。さらにもう一段深いことを考えてみましょう。自分のなかに立場の違いによってものの見方が異なる自分がいることを認められるのであれば、そのときどきの感情でもものの見方が違うことが認められるでしょう。たとえば、懐かしい出来事を思い出したときのものの見方と、哲学的な本を読んでいるときのものの見方と、仲のよい人たちと談笑しているときのものの見方と、誰かと喧嘩している最中のものの見方と、みんな違うはずです。つまり、人の立場によって生まれてくる見方の違いの他にも、いろんな要素でものの見方が変わるのです。それらを受け入れることで自分もいろんな見方の中をさまよっていることが認められるようになるでしょう。そうすると他人の見方の揺れも受け入れられるようになるかもしれません。いろんなファクターがきっかけとなって人は見方を変えていきます。その状況をおおらかに受け止めることをここでは多次元リフレーミングと呼びましょう。これに深く気づくことができれば、誰かの発言や行動も、「その人」のものではなく、ある環境や状況、直前の感情などで出てきたものと受け止めることができます。自分にもそのような要素があり、他人にもそのような要素があるのです。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますけど、多次元リフレーミングを理解すると、それは当然のことになります。

多次元リフレーミングを理解すると、力づける言葉への理解がさらに深まります。

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