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人間はまるで言葉の中毒です。認識したことは必ずといっていいほど言葉にします。認識したことで言葉にしないものはほとんどありません。この癖があるために文明が発達したとも言えるでしょう。では、なぜ人間はそれほどまでに言葉に執着するのでしょう?

すべての生命が種を保存するために子供を作ります。しかし、ほとんどの子供は自然の中で淘汰されてしまいます。その淘汰に負けないように親は次々と子供を作ります。それはどこか切ないほどの営為です。人間が言葉を発するのはそれに似ているのではないかと思うのです。生命は子供を作り続ける理由など知りません。とにかくそれをせざるを得ないのです。

なぜそのようなことを思うのかというと、言葉が複製子だからです。遺伝子も複製子です。遺伝子は複製することで生き残ります。もし複製しなければ、その存在は永続しなかったでしょう。つまり複製し続けることは、なぜ?という疑問がでる前に、そうしなかったなら存在できなかったからなのです。たまたま複製できるようになったので存在し続けられているのです。だから、生命になぜ子供を作るのか?と聞くのはナンセンスなのです。子供を作る能力が生まれたから生命として存在し続けているのですから。

いっぽうで言葉ですが、人間になぜ言葉をしゃべるのかと聞くことは、生命になぜ子供を作るのか?と聞くのと同じようにナンセンスなのではないでしょうか? つまり、言葉という複製子を次々と生み出し続けることができるから人間になれたのです。

若い頃、寝ても覚めても異性のことが気になった。あの状態は、生命であれば必ずそうなるようになっているからです。それと同様に人間は、何でも言語化しないと落ち着いていられない、そういうふうに生まれついたからなんでも言語化し、そのことによって人間になり続けているのです。だから、頭の中に言葉が巡るのは仕方のないことです。生命が子孫を残そうと必死にいろんなことをするのと同じで、人間は自分の内側に眠る思いやいろんな物事を言語化せざるを得ないのです。なぜなら、そうやって人間になってきたから。

その前提を受け入れるとして、ではなぜ瞑想などするのでしょう? なぜせっかく頭のなかを駆け巡る言葉を手放そうとするのでしょうか? 生命の例で言えば、子供を作るための生殖をしなくなるようなものです。

その答えは、瞑想しても言葉を一切使わなくなるわけではなく、言葉を使う効率や質を高めているからです。そして、生命は似たことを実はしています。進化した生物ほど、生殖機会が少なくなっています。または、一度に生む子供の数が減っていきます。なぜでしょう? それは子供に手間をかけるようになるからです。手間をかけることで遺伝子以外のことも伝えるようになります。たとえば類人猿などは文化のようなことを伝えることが知られています。遺伝子という複製子をものすごい数伝えようと努力することから、子供の数は抑え、質を高くしようとし始めるのです。瞑想はあたかもそれに似ています。無意識に垂れ流していた言葉を、きちんと考えて、そばのひとたちに力を与える言葉をしゃべるようになるのです。非科学的かも知れませんが、ひとは自分たちが使う言葉によって勇気づけられたり、頑張ろうという気持ちになったりするものです。そういうことのための知恵は宗教に埋め込まれていたように思います。ところがそのような知恵は定量化、定性化できないために非科学的と言われて廃れてしまいました。しかし、科学的に生きる私たちより、かつて非科学的に生きていた人たちのほうが、生きていきやすかったのかもしれません。それは何千年もの伝統に支えられて継続してきたものだから。もし役に立たないいらないものなら何千年も続きはしないでしょう。

科学的に生きることで生きていきにくくなっていませんか? そう問われると思い当たるふしのある人がたくさんいると思います。瞑想を理論的に解明しても、あまり役に立たないのかもしれません。それより単に受け入れて、そのことで楽しく強く生きていけるのであれば、それでいいような気がします。


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