言葉と私 Step13 ネガティブの功徳

By yoji

こんにちは、つなぶちです。

多くの人が、自分の人生をいいものか悪いものか自分で決められることを知っています。

他人から見ればどんな不幸な境遇にあっても、本人が幸せだと思って生きていれば、きっとその人は幸せなんだろうと思うことができます。しかし実際は、不幸のどん底で「自分は幸せ」と思える人は滅多にいません。たいていは不幸な状態に落ち込み、様々なことに愚痴を言い始めます。

では、不幸のどん底でそれでも「幸せ」と言える人は、なぜそう言えるのでしょう?

ただ「幸せ」というだけなら誰でも言えますが、心の底から「幸せ」と言えるのはなぜでしょう?

それは心の背景が違うからです。

黒板に白いチョークで書いたら見えますが、ホワイトボードに白いインクで書けば見えません。同じ白でも背景が違えば効果が違うのです。同様に心も、その背景が異なると、同じ状態や現象が違う意味を持つようになります。東京で水道がなければ非常に不便だと感じ、命に危険があると訴訟を起こす人もいるでしょう。しかし、アフリカの奥地のようにまわりに水道がなく、すべての人たちが近所に水汲みに行かなければならない環境にいたら、それが当たり前と思い、毎日水汲みに行くでしょう。同じ「水を汲みに行く」という作業が東京では非常な苦痛に感じますが、水道のない地域では当然のこととして受け止めることになるのです。

もしある人が非常な苦労や不幸を体験し「どん底」とも呼べる経験があるなら、たいていのことは「たいしたことはない」と感じるようになるでしょう。一方で、ほとんど苦労をしたことのない人が、ちょっとした苦労を背負い込むと、それを「非常に大変なこと」と感じるでしょう。だから若いときにはある程度の苦労は普段からした方がいいと言われるのです。しかし、「どん底」とも呼べるような非常な苦労はなかなかできる訳ではありません。では、どうしたらたいていのことを「たいしたことはない」と思える心の状態にできるのでしょうか。

『ダライ・ラマ こころの育て方』という本にこんな話が出てきます。

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 昔々、あるギリシャの哲学者の弟子がいた。弟子は師から、誰でもいいから自分を侮辱した人に三年間金銭を与え続けろと指示された。修練の歳月が終わった時、師は弟子にこう言った。

「さあ、お前はアテネに行き、知恵を修得して来るのだ」

 弟子がアテネに入ろうとしたとき、一人の賢人が門のそばに座って往来している者すべてを侮辱しているのに出会った。

 賢人は弟子を侮辱したが、弟子は急に笑い出した。

「私はお前を侮辱しているのになぜ笑う?」

と賢人は言った。弟子は答えた。

「なぜなら、私は三年ものあいだ、このようなことに対してお金を払い続けてきたんです。でもいま、あなたは私をただで侮辱してくださっているのです」

 これに対して賢人は答えた。

「さあ、街へ入るがよい。すべてはお前のものだ」

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この話からあなたは何を読み取るでしょうか。感じたことを五分間で書けるだけ書いてください。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

書いた文章は保存しておいてください。しばらくのちに読むと、そのときと現在の心の違いが理解できます。

感情は勝手に動きます。いくら感情を操作する知識を持っていても、それだけではどうしようもありません。「こうしたらいい」と知っていても、感情はかならずしもそのようには動いてくれないのです。ある状態に感情を動かしたいのであれば、その状態を作り続け、慣らしていかなければなりません。そういう意味で、へりくだるということには価値がありました。誰かに対してへりくだることによって、心の強さを育てていたと言えるのです。日本ではあるときからへりくだることが軽視されるようになりました。その結果、日本人が持つことのできた心の強さを失った人がたくさんいるでしょう。日本には敬語がありました。いまでももちろんありますが、若い人で正しく敬語を使える人は少なくなってきています。そのことが心の強さを失わせていると言えるでしょう。

チベット密教で修行のために唱えるマントラの一つに次のものがあります。

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心を訓練する八つの詩頌

一、如意宝珠をもしのぐ

  一切の衆生のために

  最高の目的(仏の境地)を成就しようという決意をもって

  常に衆生を慈しむことができますように

二、誰と知り合いになろうとも

  自らをもっとも劣った者とみなし

  心の奥底から他者を

  もっとも優れた者とみなすことができますように

三、何をやるのにも自らの心の流れのなかで吟味し

  自他に危険をもたらす煩悩が生じるやいなや

  雄々しく立ち向かい

  退けることができますように

四、よこしまな本性をもった衆生が

  重い罪や苦しみに苛まれているのを目にしたならば

  貴い宝と遇ったがごとく

  めったに見いだせないものとして

  慈しむことができますように

五、他者が嫉妬から私を罵り

  嘲るなどしても

  敗北は私が引き受け

  勝利を相手に捧げることができますように

六、大きな望みをもって奉仕した相手が

  理不尽にも私をひどく傷つけたとしても

  修行の上の最高の師と

  みなすことができますように

七、要約すれば、自らのすべての幸せや利益は

  母なる衆生に捧げ

  衆生のすべての害や苦しみは

  ひそかに私が引き受けられますように

八、それらすべてが、世間八法*の

  思惟の垢に汚されることなく

  一切の事象は幻のごときものと悟った心が

  執着なく、(輪廻の)枷より解き放たれますように

     *世間八法 人間の心をかき乱す八つのことがら。利得、

          損失、称讃、非難、誉れ、誹謗、楽、苦。

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この詩頌に対してダライ・ラマ法王は、「自分がいつもこのように考えているわけではないが、修行としてこの感覚を受け入れることには価値がある」とコメントしています。

自分の内側にネガティブな背景を作ることで、多少のネガティブに対しての抵抗を作っているのです。さきほどの白いインクの話にたとえれば、灰色のインクを使うことでホワイトボードでも、黒板にでもかけるようになるということですね。

心を育てるためにはいろんな人に共感できることが必要です。喜んでいる人、悲しんでいる人、苦しんでいる人、笑っている人。様々な人に共感できる心を持つとき、その人は健全です。しかし、ある感情には共感できないとしたら、その人は健全とは言えないかもしれません。特に幼い頃から苦労したことがなかったり、悲しい思いをしたことのない人は、大人になって問題を生み出すでしょう。すべての感情に共感できる人は、それを背景として物事を考えたり感じたりできます。ある感情に共感できない人はその感情や、または正反対の感情に直面したとき、激しい怒りや極端な苦しみを生み出します。

普段から自分の心を正しくネガティブにすることを避けてはなりません。正しいネガティブを知ることで、心を平安に保てることもあるのです。

正しいネガティブは「私がたとえ誰かより劣っていても、私には私の価値があり、勤めるべき役割がある」と知ることです。正しくないネガティブは「私には価値がない」と思いこむことです。

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